5. 筆者所感:「よそよそしさ」について
ここからは筆者個人の所感である。所感であるがゆえに「事実を元にした記録」とは少し趣向を変えて、事実というには不確かな記憶、未だ事実にはなっていない感覚をもとに記そうと思う。
「よそよそしさ」という感覚
プロジェクトの全上演終了後だったと記憶しているが、演出の西本が「よそよそしさ」という話を始めた。チーム・チープロ及び西本が実現したい、とても感覚的であやふやなイメージを言い表すのに適切な表現を見つけた、というような言いぶりだった。聞くに、一般的なよそよそしさのネガティブな印象とは異なり、確かに今まで不明瞭だった方向性のイメージが説明された感覚になった。
西本によると、「よそよそしさ」とは付かず離れずの絶妙な距離感のことで、個々が完全に独立することを目指すのでもなく、かといって大きな1つの集合としてまとまってしまうのでもない距離感を指す。何か強い存在に「べったり」身を委ねるのでもなく、「きっぱり」拒絶するのでもなく、それ以外の仕方での関わり方を探っていくこと。一つの作品を鑑賞することに例えるなら、各個人が作品の中に作者の意図を感じつつも、そこに自身の経験や感覚を写しながら様々なことを感じ取る。(時には何も感じないことがあるかもしれないが、)その余地を残し続けること、と言えるかもしれない。
これは振り返ってみると、ここまで記してきた20世紀プロジェクトの記録でも触れたように、「vol.1」から「vol.3」までの上演にも通じていた。さらに言えば20世紀プロジェクト以前のチーム・チープロ作品にも通じるものがあった。このプロジェクト以前の作品のなかで、原作脚本の時系列を入れ替えたりセリフを単語の途中でブツブツに切って発話したりしていた(2017年2月上演▶「すべて神の子には翼がある」など)ことも、原作やセリフのメッセージを弱め、別の解釈が生まれる余地を押し拡げることで原作の意図と観客の個人的な解釈を共存させるための試みだっと言える。「vol.1」で俳優であることを受け入れることも拒絶することもしない態度を演出したことも、それによって、強烈なハムレットの言葉すらも宙に浮いてしまう(強く届いてこない)ような状態を作り上げていたのだろう。
現在の東京と「よそよそしさ」
この「よそよそしさ」の発想には現在の日本や東京の空気が大いに関係している。人々が緩やかに持っている「みんなで一緒に頑張って成功を掴む」ことが礼賛されるイメージが、おそらく、報道の効果だけではない仕方でも浸透している。なぜだか求められているような「気がする」文脈に、知らず知らずのうちにいつの間にか乗せられている感覚。そこに違和感を覚えたことに、「よそよそしさ」は始まっているのだろう。
このアーカイブの制作にあたってのインタビューの中で演出の西本も述べていたが、20世紀プロジェクトでの試みは、観劇後に何か一定の感想や感情をもつパフォーマンスではなく、「答えの見つかっていない問いを出すから、一緒に考えましょう」という場作りを目指していた。上演そのものが「問い」であり、その答えは見つかっていない。答えが見つかっていないので何か1つの答えに導くような内容にはならないし、でも上演はしている(前述のように上演という形式は強い求心力を持つ)ので観客がそれぞれ勝手に考えているだけではない。そんな状況はとても「よそよそし」く、そして「よそよそしさ」という感覚は今後もチーム・チープロが標榜するにふさわしいと筆者は感じている。