2.『vol.1: Let’s Dance(?)』

概要:デヴィッド・ボウイとハムレットの葛藤

2017年6月、目黒のアンティーク家具店「rocca -六家道具商店-」(現Rocca)で行われた20世紀プロジェクトの1作目『Let’s Dance(?)』は「デヴィッド・ボウイ」「ハムレット」の2要素からなる作品だ。この上演の原形には、2016年11月上演『人間の尊厳に関する実験vol.2: 上演』(ステューデントアートマラソンvol.12参加作品)で実験された、一定のルールの中でランダムに発話・動作が行われる演出があった。

   5人の俳優が演出家によって規定されたルールに従って9時間の上演時間を過ごすという形式の上演となり、それまでのチーム・チープロの上演に比べて大きな変化が見られた。俳優はシェイクスピアによる戯曲『ハムレット』から引用された台詞と、ボウイを模したポーズを手札に、それらを任意のタイミングで繰り出すことができた。

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   1970年代にロックスターとしてカルト的な人気を博し、彼のパフォーマンスを熱狂的に享受する共同体を形成したデヴィッド・ボウイは、その共同体に君臨するために自ら作り出したキャラクターと、本来の自分との間の乖離を発端にいっとき第一線から去ったとされている。『ハムレット』を引いたのは、主役ハムレットとボウイの姿を重ねたためだ。

選択の放棄

「観衆からの期待に応えるのか・背くのか」というボウイの葛藤を、ハムレットの「父親の亡霊に定められた運命に従うのか・逆らうのか」という葛藤、ひいては物語の主人公であることに対するメタ的な葛藤と重ね、さらに、それに応えるでも背くでもない、従うでも逆らうでもない、どちらにも決定しない方法を模索し試みたのである。

   上演当時、チーム・チープロがこの試みに見出していたのは、出演する俳優が、自らが俳優であること、役割を与えられていることを「受け入れるか・拒絶するか」の選択を放棄した時、どのような効果が生じるのかといった問いだった。求められている、もしくは求められているように感じられる文脈に、「乗るか・乗らないか、そのどちらでもない」状態が何をもたらすのか、が焦点となっていた。

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実験と結果:観客の俳優化

「俳優である/ではない」を放棄した結果、物語と役が消失した。指定されたルールに従いつつも俳優は基本的に任意のタイミングで、与えられた台詞のうち任意のものを発話できる(しなくても良い)。また、ルールの範疇であれば、2階建ての会場を自由に歩き回れ、とどまれる。身振りは指定されており、会場内の特定の場所でできる行動も規定されているが、身振りや行動のタイミングは大半の時間において俳優に委ねられている。ゆえに俳優は「基本的に何もせず」、場合によっては「しばらく俳優のいない空間」がその場に出現することもあった。

   また作品全体において「開演・終演 / する・しない」の選択を放棄した。上演時間は9時間に及び、その間観客は自由に出入りすることができた。最初から観なくても、最後まで観なくても良い。最初も最後もないのだから。それはあたかも「展示」のようだった。

   その結果、舞台と客席の境目が消失した。「観客に観られる/を観る」の選択が放棄されることになり、俳優が観られている状況と、逆に俳優が観客をじっくりと観る状況、さらには観客が他の観客の振る舞いを観る状況が同居した。観客がむしろ俳優的な振る舞いをすることすらあった。というのも、「何もしない俳優」「俳優がその場にいない空間」を前に観客は受動的な鑑賞を取り上げられ、展覧会に美術品を鑑賞しにきたように、どの作品をどう観ようか、どこから観ようか、観客自らの意思で上演にアクセスしていく必要があったからだ。

   そんな状況に身を置く観客は最終的にいくつかの鑑賞方法にたどり着く。じっとある地点から動かずに鑑賞するか、何かが起こっている状況を避けるように移動するか、積極的に俳優や状況に接触しようとするか。この3つ目の反応が特に俳優的であった。俳優の真似をする、俳優に衣装を着せる他、中にはセリフを読み上げる観客まで現れた(会場にはセリフの書かれた名刺大のカードが手に取れる形で散在していた)。その様子はどこか暴力的で、演出・俳優他スタッフには動揺が走った。また、他の2つの鑑賞方法ですらも観客が俳優的に見えてくる空間(俳優もじっとしているし、観客を避けるように動いたりする)がそこに作り上げられていたことも併記したい。

––––– 2日目の最後、2階(会場は2階建てで、2階はより家っぽい、部屋っぽい仕様になっていました)に5人ほどの観客だけが集まり、トランプやラジオで遊び、そうした状況を他の観客が眺めるという状況が生じました(まさしく「我が家」のように)。そこには一人も、俳優はいなかったにもかかわらず。 (中略) この事態をどう引き受けたらいいのか、今でもよくわかっていません。これを失敗として、つまり当初目論んだ観劇のスタイルからの逸脱として捉え、ルールを強化すればいい。というようには思えないのです。この作品は、観劇という、あの、椅子に座って黙って劇を眺めるという行為も捉え直したかったのだから。俳優と観客という立場を規定する基盤を問い直したかったのだから。

西本健吾 「『20世紀プロジェクト:Let’s Dance(?)』を振り返って」より抜粋

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