3.『vol.2: 祝祭を待つ・賢治』

概要:宮沢賢治の心象スケッチ

2作目の『vol.2: 祝祭を待つ・賢治』は音楽の演奏を基本とした上演だった。会場となった三鷹のカフェ「COFFEE & TEA 記憶の岸辺」に椅子とテーブルを配し、通常のカフェの様相を呈した中に、ギタリストベーシストドラムパッド奏者、そして朗読者が散在し、ルールに従って筋書きのない演奏と発話を行う1時間〜1時間30分の上演だ。ドラムパッドにはドラムパッド奏者による朗読もサンプルされていた。

   観客には席が用意されているが舞台との境目はなく、立ち歩いて飲み物や軽食を購入することができるようになっていた。演奏は宮沢賢治の詩篇『春と修羅』から設定された4つのキーワード「錯綜」「風景」「調和」「修羅」を元に想起したフレーズのレパートリーの中から、それぞれのプレイヤーが任意にどれかを選択し即興的に行われた。朗読もその然りで、詩の中からキーワードに則して断片を抽出し、発話された。

   演奏するタイミング、演奏を止めるタイミングは事細かなルールによって規定されていたが、これは時系列的に演奏を管理するものではなく、偶然性を保持し続けるためのルールであった。[上演における演奏のルール]

   この上演のコンセプトは、宮沢賢治の詩作の手法である「心象スケッチ」「再構成」を元に設定された。『春と修羅』における宮沢賢治の詩作は世界との直接的な経験をスケッチ的に書き留めていく、いわば即興的な方法によって行われた。また、彼はそうして作られた詩に対し事後的に推敲を重ねることで再構成し、その果てに一編の詩として発表・出版した(その後も賢治は推敲を続けていた)。

実験と結果:即興演奏と飽きる観客

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「vol.2: 祝祭を待つ・賢治」はこの「心象スケッチ」→「再構成」の経てに世に現れた詩を、演奏とともに「再々構成」することで詩篇『春と修羅』の世界を再び旅することができないか、ひいては宮沢賢治が通ったであろう試行錯誤の推敲の行程を追体験できないかという試みとなった。

   演奏はごくランダムに進行していくため、いわゆるサビ・テーマといった部分は用意されていない。また、ルールに則って自動的に行われることから、各プレイヤーの演奏は基本的に「非同期」の状態にある。仮に、各プレイヤーが同時に4つのキーワードの内の同じものから想起したフレーズを演奏し始めた場合、音楽的に調和の取れた、各演奏が「同期」した旋律が演奏される仕組みになってはいたものの、上演中にそのタイミング(これを「祝祭」とした)がやって来ることは担保されていない。また、各プレイヤーが別々のフレーズを演奏している場合でも、予期せず「同期」する可能性も意識されていた。そのため上演中は、観客も演奏者も、いつか来る、来るかどうかもわからない「偶然の祝祭」が到来するのを待ち続けた。

   全上演を終えた時点で、観客からの反応は厳しいものだった。「vol.1」の形式とは打って変わって、人数分の椅子が用意された状態で時間を決めて集客する、観客への制約が少し強い形式をとったため、「上演」という表現方法の持つ中央集権的な構造が強く出てしまった。観客はあくまで受動的な鑑賞に偏りがちになり、何も起こらない(祝祭がやってこない)ことに対して飽きてしまった。

 

––––– クラブと異なるのはその不自由さだ。正直なところ、他罰的とでも形容したくなるような観客へのプレッシャーを感じた。ルールがないようで、その実がんじがらめになるような感覚。(中略)この公演の「良き観客」になろうとするならば、役者に課されたのと同様の過酷さが要求される。

島 晃一 (Soul Matters)  「そこにカクメイはあったのか?」より抜粋

   上演前には、観客への制約がここまで強くなることは想定されていなかった。会場内の移動や友人との談笑がされている場を設定したつもりだったが、観客はいわゆる鑑賞(=定位置で終わりまで見届ける)スタイルに終始してしまった。それは空間設計の不足が原因だと分析された。

   この頃からチーム・チープロの「20世紀プロジェクト」に対するテーマ設定は明確化しつつあった。実は、「いつ来るか、来るかどうかもわからない何かを待つ」状況を作り出したことは、「上演」という形式を、1つの全体像を示すのではない方法で考え直すことの一環だった。要するに、観客が感じ取るものが統一されない上演の方法を模索することだ。

   「vol.2: 祝祭を待つ・賢治」ではその求心力を削ぎきれなかったが「vol.1」「vol.2」と着実に方向性を定めていっていた。

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